昭和43年08月02日 夜の御理解
色々な学問がございますがね、例えば経済学と工学とか医学とかとそれぞれの事をこの学問にまで高めたその専門の学問がこう日本に、あの言葉をこの上手に表現すると、その何とかっていうこれも大変昔に、からあのあった学問のひとつだそうですね。何とかって今日高橋さんが言ってましたが忘れましたが、確かにあの言葉は、あの表現次第でいろんな意味のちがったもの、おんなし事でもその意味の深さ広さを感じるような言い現し方によってはあのう変わってくるんですね。
そういうその学問が昔はあったと、今はない。けどもとばに書いてから説明してくださったんですけども。今日はあの一時の御祈念のあとに御理解があそこいつも書かれます。その中におんなじような言葉が使ってある。ね、例えばあの病気が病気を癒すとか、治すとかと。癒すと言う字は病気が治ると言う意味なんです。だから実際いうたらもう同じ事なんですね。病気を癒す、または病気が治ると。
けれどもその前に今の医者でも、薬でもとこ使ってある。それで私はあの医者でも薬でも癒す事も治す事もできないと言ったような表現をした。だからそれを、こりゃおんなし事だけれども言葉の濁音からいくとですね、同じ意味でもその表現の仕方によって、前に使っておる医者と薬という言葉が大変この意味が変わって、ま、意義がそこにでてくると。そういうようなものらしいですね。
確かにあの言葉というものは難しいその自分の思いを表現すると、言葉ほど不自由なものはないといわれるくらいに自分の思いを表現するという事は難しい。その難しい事に取り組む事をいわば、何とか、土屋さん覚えておんなさらんかね、とばに書いて・・・?やっぱ学問にそれが学問になるほどに研究されるものらしいですね。そういう意味で私はあの御理解を頂くたんびにそれを感ずるんですけどもね。
はぁ、神様に気をもってする事に表現する事はいつもそういう言葉の学問とまで高められるほどのすばらしい表現を持ってくださるんですね。実は今晩もあの福岡の徳久さんのとこのお父さんの御霊様の立ち日。それであの、ま、お供えでもなさってからそしてその御霊様をま、お慰め申し上げたいとこういう徳久さんの気持でございました。それで今晩私が玉ぐしをあげましたのもそのためでございましたが。
その事を私はあのお届けさしてもらいよりましたらね、このゼロて言うですね、丸ですね、丸をこういくつも書いてみて下さい。信心は、私はあの結局おかげを受ける、ま、一番大事なものは、いわいる我情我欲をなくすという、いわいる空しゅうするという自分をゼロにすると言う事なんですね。あぁしたい、こうしたいと言うその思いを無くすという事、自分をゼロにすると言う事、ね。
そのゼロにすると言う事がですね、あの大変なおかげの頂けれる要素になるわけですけども、今晩私御霊様に対しての時のあのこのゼロというこの丸をこりゃちょっとどういう意味じゃろうかと私は思うたんです。例えて言うなら、例えて言うなら子供の時ですね、全然神も仏も知らないうちに産まれた人、私どものようにおぎゃっと産まれた時から、いわいる神様と仏様だと言うその中に産まれて、ま、
例えば私どものようであると、もうこの人は神様のおかげで助かった、無い命を神様のおかげで何べんも助けてもろうた、この人は神様の御恩ども忘れよるとばちかぶるというようなふうにですね、私のばばは、私を人に評したり話たりする時にそんな事を言ったもんです。ですからほんとに自分が神様のおかげで助かっておるんだなと子供心にもやはり神を信じまたは、仏を信じさせて頂けるようなおかげを受けてきた。
まそれがなら、五つなら五つそれを信じておったといたしましょうか。ある人は一つなら一つを信じておったといたしましょうか。そのね例えばその基本になるもの一または五と、その五に例えば一人づつ丸をつけてってごらんなさい。ね、一つつけると五であれば五十、二つつけると五百、もう一つつけると五千、もうこれは大変な数字になっていわいる天文学的な数字になってくるでしょうね。
仏教の教典なんかに読みよりますと、もうそれこそ天文学的なですね、例えばあのあれですね弥勒菩薩か、弥勒菩薩いわばそのお釈迦様が産まれなさってから、そして五億何千年、五億万年かねの年数がたった時には、またその世を直されるような素晴らしい仏様が出現されるんだと言った様な事予言してある経文が御座いますですね。と言う様にそのもうそれこそ天文学的な数字になる事で御座いましょうけどもです。
例えば私が神様を五、頂いておった。その五に対して私がいつの場合どんな時に自分を空しゅうしていったかという〇がですね、ついている。また、神様の前に御霊様の前に自分を空しゅうしてどれだけお供えをさせて頂いたか、いわいるそれだけ自分を空しゅうしとくと、たんびにその〇と字がついていって、それこそこれは天文学的な数字にいわばなっていく事でございましょうけれどもですね。
ですからあの、ほんとにこのへんの所が私は大事だとこう思うんですね。途中から神仏を知ったという人もまたありましょう。けれどもその私共の場合は、そのまそういうふうに小さい時から神、仏を信じさせて頂ける中にあった。それは一か二かまたはそれは分からないですけども、何とはなしにそこに信じておる。その数は少なくてもその後において自分を空しゅうしてきた。
自分を丸、ゼロにしてきたというその数がですね、どのくらい大変な数になっていくかわからない。それがやはり信心の力ともなるのだと言ったような事を私、御理解を頂いたわけではないけどもそんな事を感じた。今日の御霊様の前に対して床屋さんが、ね、なにがしかのお金をいうならば信心の神も仏もあるもんかと言う人の場合だったら例え百円の金でもなぁにもならん事に捨てた事になる。
けどもそこに神やら仏様を信じ、又は主人の御霊なら、御霊に対するところの思いというものを、自分の例えば時間とか又は、あのお金なんかを、そこに空しゅうしていくと、ね、その事があの神様がお受けになり、又はあの御霊様が、お受けになり今まで例えば、なら五十の力を持ってござった、御霊様であるならば、今日のその真心の奉仕がで一つの丸がついたとすると。
五百の力を御霊様が、受けられたという事になるのですね。その事を私感じたんです。そしてそういういわば、表現力というのがですね、やはりあの神様の、おかげでこう言うような事を、今日高橋さんが言われた、何とか学と言われた学と言うのではなかろうかと言うふうに考えた。ね。ま今日は言葉の表現中々難しい。
難しいけれどもだからそれを研究するとやはり一つの学問に成り立つぐらいに難しいもの。と言うような意味の事と同時に私共が日のうちに何回自分をむなしゅうする、ね、それが私共の信心に丸と言う一つのはくをつけていく事になるのでございますから、自分をゼロにするというかね、空しゅうする稽古をいよいよしなければならないと言うふうに感じますですね。
どうぞ。